どうも川鵜です。
先ほど母親がこのサイトを見てみたいと言ったので、URLを送信しました。確かにPCを手に入れたとたん毎日夜中に作業していたら気になるのも分かります。悪いことはしてないから安心してほしい。
逆に僕が最近母親の事で気になっていることがあります。それはこちら。
説明します。これはニンジンのヘタを水につけて、伸びた部分を収穫して食べるために育てているんだそうです。
「捨てる部分から食べれる部分が育つなんて最高~」と母はいいますが、もともとニンジンの茎や葉っぱなんて”食べられる”だけで食べよう思わないんだから「ゴミ」が「食べられるゴミ」に変わっただけじゃないかと言ったら野暮だと言われました。
そういうものでしょうか。食べようと思わないようなものでも、「食べれない」から「食べられる」に変わるだけでこんなにも人は幸せを感じることができるなんて面白いですね。
さて、本題です。
今回は我が家のニンジン君から学んだ”食べられる”という価値を見極めるために、
色々な”食べられない”ものが”食べられる”としたらどう思うか考えてみたいと思います。
“お菓子の家”とか”食べられるロボット”とか、もともと食べられない状態でも価値あるものが食べられたらもっといいのは分かりきったことですので、”食べられる”ということがどれだけ魅力的なのかを考えるには食べることができないものすごく価値の低いものを用意したいところです。
しかし、この世にはどんなものにも生まれてきた意味があって、何の役にも立ってない価値のないものがないのです。試しに「価値のないもの」とか「役に立たないもの」とか「必要ないもの」とかGoogleに聞いてみても答えはどこにもありませんでした。
仕方がないので今回は
個人的に恨みのあるものを食べれるようにして恨みが消えるか
で判断していきたいと思います。
エントリーNo.1:ホコリ
”別に汚したわけじゃないのに時間がたつだけで蓄積していく掃除しないといけないもの”
こんなの好きな人いるわけない。見た目の汚さだけでなくアレルギーの原因にもなる本当に嫌な奴。
最初は花粉を考えましたが、花粉は実際食べている人のブログが出てきたので除外しました。世の中にはいろんな人がいますね。でも流石にホコリを食べている人は見当たらなかったので、今回はホコリは完全に”食べれないもの”だとします。
そんなホコリがもし”食べられる”としたら…
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…川鵜の頭の中のスーパーコンピューターがはじき出した結果はこうです。
”めっちゃいい”
でました。めっちゃいい。考えてみればそうです。
小腹がすいたらお掃除して集めたホコリをたべればいいなんて、掃除と食事を両立できる革命的なアイデアです。しかもホコリの発生は自動かつ、一切コストをかけずに行うことができます。食費が浮くだけじゃなく、世界の食糧難も解決してしまうかもしれませんね。
エントリーNo.2:三角関数
サイン、コサイン、タンジェント。「こんなの将来何の役にも立たねぇよ!!」と言われがちなこの単元。実際は測量の仕事やCGクリエイター等の仕事では普通に使うものらしいのですが、如何せん難しくて何の役に立つのかわかりづらいのがこの”三角関数”です。
この三角関数で躓いてしまって高校数学が苦手になってしまった人もきっと多いと思います。
そんな三角関数がもし”食べられる”としたら…
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…川鵜の頭の中のスーパーコンピューターがはじき出した結果はこうです。
”めっちゃいい”
また出ましたね。めっちゃいいです。
「何の役に立つかわからない」これが学生の興味関心を削いでしまう原因の一つであることは間違いないです。それが「食べれるんじゃん。もぐもぐ」となればどうでしょう。数学の勉強の片手間に三角関数を食べて勉強をすることだってできちゃいます。そして食べていくうちに段々と興味がわいてきて三角関数に苦手意識がなくなっていく学生がきっと増えるはずです。
エントリーNo.3:悪
”食べられない”ものの中で最強の嫌われ者である「悪」に最後は締めてもらいます。
この世にはびこるあらゆる”悪”を食べることができたら一体世界はどのような変化をもたらすのでしょうか。非常に難しい問題ですが一緒に考えていきましょう。
もし悪が”食べられる”としたら…
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…川鵜の頭の中のスーパーコンピューターがはじき出した結果はこうです。
”世界が終わる”
まさかの結果が出ました。「悪」を食べることができたら世界が終わるとはいったいどういう事でしょうか。
陰と陽、善と悪、全と一、一と全。この世の中は大きくて小さい二つのエネルギーのバランスによって存在しています。その中の”悪”を食べるというのはいずれ”善”のエネルギーで世界が満たされることになってしまいます。
一見すごくいいことのように思えますが、全てが”善”になってしまうと、善であることが判断できない世界が始まってしまい、善でも悪でもない”無”が始まり世界が終わるのです。
ですから、軽率に悪を食べれるようにすることは自らの手で自分たちが生きているこの世界を壊すことに繋がりかねない危険なことだと言えます。
大事なのは悪を食べてしまうことではなく、あらゆるバランスの上で自分が存在していると言うことを知ることなのです。
ということで、
いろいろなものを食べられるようにしたらどうだろう検証はここまでです。
みなさんは”食べられる”ということにどれだけ魅力を感じますか?お皿まで食べられる料理があったり、外来種を食べられるように調理したりする番組があったり、”食べられる”ということは無駄にしないだけでなく”食べられないものが食べられるようになるなんてウケる”というエンタメ的感覚も刺激してくれるのかもしれないですね。
僕は大っ嫌いな食材でも今は克服してもしかしたら食べられるかもしれないと思い、飲食店で苦手克服チャレンジを開催して毎回後悔しています。
みなさんも、実はたべられるものをさがして食べてみてはいかがでしょうか。味わうだけではない食の新感覚を体験できるかもしれませんよ。では。
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